第1話:彼はまだ君の名前を知らない

Chapter 1: 彼はまだ君の名前を知らない
朝の光がまだ低い。
店のドアを押し開けると、かすかにコーヒー豆の香りと、それからほんの少しだけ焦げたミルクの匂いが混ざって漂ってくる。店内にはすでに数人の客がいて、それぞれが自分の時間を過ごしていた。窓際の席ではノートパソコンを広げた女性が、イヤホン越しに何かのミーティングに参加している。カウンターの端では、スケッチブックを開いた学生がコーヒーカップを横に置いて、何かを描いている。
「おはよう。」
声がした方を見上げると、エプロンを締めた男がカウンターの向こうに立っていた。ジェイク。26歳。彼はタンブラーを拭く手を止めて、こちらに穏やかな笑顔を向けた。
「いつもの?」
いつもの。そう言われて、少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。確かに、ここ三日続けて同じ時間に来ている。最初の日はエスプレッソマキアートを頼んで、二日目は迷ってから結局同じものを頼んだ。昨日は彼が「またマキアート?」と聞いてきたから、そうだと言った。だから今日は「いつもの」になった。
「うん、お願いします。」
彼は頷いて、エスプレッソマシンのレバーを引く。コーヒー豆が挽かれる音、圧力で抽出されるエスプレッソの濃い色。その間、彼は何気なく言った。
「今日はちょっと早いね。いつもより30分くらい早い?」
覚えている。私の来る時間も。
「目が覚めちゃって。それに、今日は少しだけ寄り道したくて。」
「寄り道?」
「うん。この前、店の向かいにある公園で、白い猫を見かけたんだ。今日もいるかなと思って。」
彼はミルクをスチームしながら、目を細めた。
「ああ、あの猫。確かに最近よく見るよ。たぶん近くの家の飼い猫で、朝だけ散歩に出てくるんだと思う。」
「知ってるんだ。」
「常連さんが教えてくれたんだよね。『あの猫、かわいくないですか?』って。それ以来、気にして見てる。」
彼はそう言って、カップにエスプレッソを注ぎ、その上にスチームミルクを静かに落としていく。最後に、小さなリーフパターンを描いた。彼のトレードマークだ。
「はい、お待たせ。」
カウンターに置かれたカップから、ほのかな甘い香りが立ち上る。私はそれを受け取りながら、彼の顔を見た。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
彼はそう言って、次の作業に取りかかる。押し付けがましくない。でも、どこか温かさがある。それがジェイクというバリスタだった。
私は窓際の席に座って、コーヒーを一口すする。ミルクの泡が唇に触れて、その滑らかさに思わず笑みがこぼれる。
そして、ふと思う。彼は私の飲み物を覚えている。私が来る時間も覚えている。でも、まだ私の名前を知らない。
そのことが、なぜか少しだけ切なくて、そして同時に――次の一歩を踏み出せるかもしれない、という期待にも似た感覚を抱かせた。
カップの縁に指を触れながら、私は窓の外を見る。公園のベンチに、白い猫が座っていた。
ジェイクがカウンターの奥で、新しいコーヒー豆の袋を開ける音が聞こえる。
この街の、この店の、この朝が、何かを変えようとしている。
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